ドラえもん 2

 

 

 ■ドラえもんは一種の実験まんが……

 まんが「ドラえもんのナンセンス性の一つに、四次元ポケットがあります。のび太のリクエストに応じ、またはドラえもん自身の判断で、その場の状況にふさわしいナンセンスな道具をヒョイと取り出す。その道具が周囲にナンセンスな反応を引き起し、ナンセンスな結末に至るというのが大よそのパターンなのです。
 最近このヒョイと取り出すのが、教育上好ましくないと言う批判を、しばしば目にします。のび太が、汗も流さず手も汚さず、ヒョイと良い物を手に入れる安直さが、人気の要因であると。そんな安直なまんがは子供に、苦労抜きで成功をユメ見るイージーな人生観を植えつけるものであると。大よそ、そんな論旨です。
 ちょっと困っています。もとより「ドラえもん」は教訓まんがではありませんが、それにしても「怠け者養成まんが」のレッテルは迷惑なので、いささかの反論を許していただきたいと思います。
 まず、怠け者を主人公にしたまんががイコール怠け者賛美にはつながらないということ。のび太の怠けぶりは決してかっこ良く描かれてはいません。のび太自身、常に自分のぐうたらな性格を持てあまし、できればテキパキと宿題を片づけ、朝は遅刻しないで登校できたらどんなに良いだろうと考えているのです。年少の読者が、自分もこうありたいと願うような理想像では決してありません。
 「ドラえもん」一種の実験まんがとも言えます。常識的に考えられないような珍道具が、もし日常生活の中に出てきたら…と、そこから空想を発展させて行くまんがなのです。主題は、その珍道具が日常世界に及ぼすナンセンスな影響にあります。珍道具の入手法ではありません。だから、限られたページ数の中では、極力早く珍道具を登場させることが必須条件なのです。ポケットからヒョイと取り出すのは、この目的に沿った効率的手段です。効率的であろうとする事が、悪いこととは思いません。社会の進歩が有史以来、労働時間の短縮と、それとは一見矛盾する所得の増加という方向に流れているのは周知の事実です。人類はそのために努力してきたとも言えるでしょう。
 もし、ほんとにタイム・マシンやタケコプターやどこでもドアが手に入るなら、ぼくはそのためにどんな努力も苦労もいとわないでしょう。親愛なる小さな読者諸君もきっとそうだと思いますよ。

昭和56年 小学館刊 『藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2』より  

 

 ■一刀両断ズンズンバラリ

 「風刺」は、まんがの持つ機能の内の一つです。特にまんがの発生した当初においては、風刺こそ、まんがの最大の武器であったようです。言うまでもなく、描こうとする対象の特徴を拡大し、誇張した絵がまんがなのですから、これは当然でしょう。写実以上に作者の主張が、クッキリと打ち出されるわけです。時には、権力に歯向かう牙となって、為政者の弾圧を受けたりもしたのです。
 しかし、時代が下りまんがが庶民の間に浸透するに従い、「風刺」は主流の座から退き、「笑い」の機能がクローズアップされてきました。そして現在。今やまんがは、やっと文字が読める幼児から中年サラリーマンまでを読者として、その機能も多様化し、細分化し、「風刺」など、ほんの片隅に追いやられてしまったように見えます。「風刺」を意図してまんがを描く作家は、はっきりと少数派になってしまいました。
 「ドラえもん」は、笑いの要素をメインに置いてはいますが、その他モロモロ諸要素ゴッタ煮まんがであります。ただ一つ「風刺」だけはまったく念頭にありませんでした。
 ところが、ドラえもんを読んでくださった人の中には、その風刺性を云々される声も、かなりあったのです。「エッ?」と思って読み返して見ると、まあ、そんな感じのする作品も無いではない。これは作者の意図とはかかわりなく、まんが本来の持つ機能が生み出した付帯効果でありましょう。例えば汚職とか、環境破壊とか、もっと根元的な人間の欲望とかそんな物をまんがの材料に組み入れたとき、単にそれをあるがままに描いたとしても結果として風刺になったりするのです。自選集「風刺の世界」は、まあ、その程度の作品を集めた物とお受けとりください。
 風刺するということは勇気の要ることです。事の大小にかかわらず、そこには明確な作者の立場が明らかにされなければならない。右か左か、正か邪か。その立場は公正に、客観的に、あらゆる偏見や先入観から離れた上で、考えぬかれた結果の物でなくてはならない。例えば、敗戦による価値観の逆転とか、そんな危い物ではなく、時代や社会状況とかかわりなく、万古不易の立場に立たねば、そうやすやすと風刺なんかできるものではない…と。大げさに考えすぎるのが僕の悪い癖なんですかね。ついつい歯切れが悪くなって、一刀両断ズンズンバラリ世相の悪を切る、といった爽快さの全然無い「風刺篇」。ご期待に反したらごめんなさい。

昭和57年 小学館刊 『藤子不二雄自選集5 ドラえもん 風刺の世界1』より  

 

 ■夢や冒険に憧れる心は失ってほしくない

 「夢と冒険の世界」。この世界こそ、ドラえもんが住むに最もふさわしく、このキャラクターはその為に創られたと言っても言い過ぎではないでしょう。なぜならドラえもんは、きわめて日常的な世界にありながら、絶えずそこから脱出しようとしているキャラクターだからです。夢と冒険は、日常性と対極をなす世界です。だから夢と冒険(SF的冒険も含めて)の世界でのドラえもんは最もいきいきと活躍するのです。
 子どもは冒険を好みます。はいはいができるようになると、(つまり最初の移動手段を獲得すると)とたんに彼等は小さな体を好奇心で一杯にふくらませ、未知なる物への挑戦を開始します。階段をよじ登り、落ちている小銭を味わい、洗濯機に顔をつっこんだりして大人の肝を冷やすわけです。この止むに止まれぬ衝動、押えるに押え切れないエネルギーが、思えば人類社会を発展させたのかも知れません。
 だから子ども達は冒険物語を好みます。ぼくらも例外ではありませんでした。西遊記やアラビアンナイト、少し大きくなって山中峰太郎、南洋一郎、海野十三などの冒険小説に熱中したものです。ジュール・ヴェルヌやH・G・ウエルズ、ライダー・ハガートも大好きでした。リビングストン、アムンゼンの探検記なども忘れられません。いつの日か、大人になったらぼくらもこんな冒険をしてみたいと子どもらしい夢を描いていたものでしたが……思いもよらず漫画家になってしまいました。正直な所、ぼくらにとっては、この漫画家になるということが大冒険だったのです。大して才能に恵まれているとも思えず、なんの保証もないのに、まったく未知の世界へとびこんで行ったわけですから。
 今や読む立場から書く立場へ、一八〇度の大転換です。気が多いものですから、色んなジャンルの漫画を手がけてきましたが、やはり書いていて楽しいのは、冒険的な要素をたっぷり含んだ物ということになります。そしてドラえもんのポケットは、この開発されつくした地球の上にも、探査され生物の存在を否定された太陽系宇宙の中にも、夢と冒険の世界を作り出すことができるのです。
 子どもは成長するにつれ、彼等を取りまく日常性の中に取りこまれ順応して行くわけですが、夢と冒険に憧れる心は失って欲しくないと思います。そしてその中から21世紀なりの冒険家が現れることを期待します。

昭和57年 小学館刊 『藤子不二雄自選集7 ドラえもん 夢と冒険の世界』より  

 

 ■ナントカカントカ

 「よくアイディアが尽きませんね。あんなにいろいろの道具を、どうやって考えるんですか。」と、しばしば聞かれます。言われてみれば“ドラえもん”を始めて十一年。道具の数にして約七百種。まあよく続いていると、自分でもそう思います。
 このアイディアという奴。これは別に、頭の中の倉庫から必要に応じ一個ずつ取り出して…という物ではないのです。漫画家は、問屋や取次店ではなく、メーカーでなくてはならない。要するに締切りが迫ると机に向い、あるいは喫茶店で、あるいは寝床の中で、ナントカカントカひねり出すわけです。だからご心配いただくような“在庫切れ”ということはないのですが、ひねり出すまでに至る“ナントカカントカ”の段階で毎度七転八倒していることも事実であります。
 “ナントカカントカ”の始まりから終わりまで、つまり一つのアイディアがどういう経過をたどってひねり出されるか。それを具体的に詳述するのは困難です。何分にも捕えどころのない頭の中のことですから。ほんのちょっとした思いつきを頼りに、ふくらませたり引きのばしたり引っくり返したり…。全く行き当りばったりジタバタもがいているうちに、ナントカカントカまとめ上げるという作業を、漫画家になって以来三十年間くり返してきたわけです。
 しかし「どうやって考えるか」との問に「ナントカカントカ」とだけしか答えられないのでは、あまりにも素っ気なく失礼というものです。ほんの少しでも具体性をもった返答ができないものかと永年考えていたところ、やや納得できる回答が見つかりました。SFの大家アイザック・アシモフ氏のエッセイ集「空想天文学入門」早川書房刊であります。この中の「とほうもない思いつき」という章で、独創力のための条件として、1数多くの知識の断片を持つこと。2その断片を組み合わせる能力を持つこと。などが挙げられているのです。「断片の組み合わせ」いわれてみれば正しくそうでした。ぼくが三十年間やってきたのはこれだったのです。例えば…。
 “のび太の恐竜”という作品があります。“恐竜”という断片が核になっています。これが古代の生物であるということは、全ての人の持っている知識です。これを“のび太”という現代の少年と組み合わせることから“ナントカカントカ”が始まるわけです。時代のギャップを埋めるために“タイムマシン”という断片が援用される。“動物を飼いたがる子”“飼いたがらない親”“目立ちたがり屋”“化石”“フロシキ”“住宅事情”…。その一つ一つを取ってみれば誰もが知っている断片を、組み合わせることによってこの作品は成り立っているのです。実にあっけないほど簡単なことではありませんか。
 でも、それを“面白くする”のが大変なのですよ。“ナントカカントカマシン”をドラえもんが出してくれないものかと、僕は本気で考えているのです。

昭和56年 小学館刊 『藤子不二雄自選集2 ドラえもん SFの世界2』より  

 

 ■ナンセンスもどきの世界

 ナンセンス──1意味をなさない事柄。意味を持たない事柄。また、そのさま。無意味。3実際にはありそうもない、通常の論理を踏みはずした事柄。また、そのさま。
                     (日本国語大事典より抜すい)

 この自選集の内、ドラえもん七巻については一応ジャンル分けがなされています。SF・ナンセンス・風刺・夢と冒険の世界というわけです。ところが、この分類が実はかなりあいまいなのです。ハッキリ言って。
 なぜあいまいかと言うと、それは“ドラえもん”というマンガの性格による物なのです。生活ギャグという分野をずっとやってきて、この辺で集大成みたいな作品を書きたいと思い立ったわけです。SFあり、ナンセンスあり、夢も冒険も、その他何もかもブチ込んだゴッタ煮みたいなマンガをと…。それがドラえもんなのです。だから一つひとつの作品に、いろんな要素が重複して入りこんでいるのです。選集の体裁上一応の分類はしました。一・二巻“SFの世界”は、上記のような理由で、比較的SF色の強い物を選びまとめました。今度は比較的ナンセンス色の強い作品集を、というわけです。
 ナンセンス漫画といっても、これまた厳密な定義はないのです。ギャグ漫画すべてをひっくるめてナンセンスと呼ぶ人さえいます。ぼくの個人的な印象では、例えば筋の運びが1+1=11となるのはユーモア漫画。1+1=3、4、5→8となるのがナンセンスではないかと思うのです。常識を拒否し、論理を踏み倒し、飛躍、また飛躍!読者にとっては一コマ先が闇というのが優れたナンセンス漫画であると考えています。かつての杉浦茂氏。現在の赤塚不二夫君を、その世界の雄(オスではない。ユウとお読み下さい。)と呼ぶべきでしょう。

 ナンセンスに徹した漫画を書くのは実にむずかしい。何度かアタックしたことはありますが成功しませんでした。ドラえもんが、いくら奇想天外な道具を出しても、それだけではナンセンスにならない。筋運びが問題なのです。どうしても話が、因果関係を離れずには展開しない。かといって何でもかんでもデタラメを書けばいいという物ではない。意外性とか、はぐらかされた驚きに、生理的な快感が伴わなければ、読んでいて面白くもなんともないわけです。実にむずかしい。と、いうわけでこの巻は“ナンセンスもどきの世界”です。

昭和56年 小学館刊 『藤子不二雄自選集3 ドラえもん ナンセンスの世界1』より  

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