漫画論 3

 

 

 ■パターン化を避けよう

たとえば、面白いまんがをかいて、デビューします。それが連載になり、大ヒットしたとしましょう。すると、次からは、大ヒット作品にあやかったような類似の作品を求められることが、多いのです。それはそれで、ひとつの大成功ですから、おめでたいことには違いないのですが、そこには、「作品がパターン化してしまう」という落し穴があるのです。

では、パターン化とは、どういうものか。たとえばぼくの場合、「オバQ」以来「ドラえもん」に至るまで、生活ギャグ路線で、多くの作品を発表してきました。「ドラえもん」ひとつとっても、話の数は1000以上になっているはずです。ドラえもんがポケットから何かを出し、のび太の悩みを解決してあげたり、あるいはさらに混乱を大きくしたりする。というのが、決まりきったパターンとして続いているのです。

しかし、「作品のパターン化」というのは、このことではありません。これは、ポパイがホウレンソウを食べないと、それはポパイでないのと同じように、ポケットから何も出さないドラえもんは、ありえません。これは、ひとつの「決まり」「設定」というものです。十ページくらいの連載を、毎回毎回1000以上もかいてくれば、さまざまな面でパターン化が目立ってくる。それが、大きな悩みなのです。

たとえば、「怒り」の表現。のび太はしょっちゅう、誰かに怒られています。ママの場合だと、ママは子どもに過大な期待を寄せるし、それにしてはのび太はふがいなさすぎて、たえずもどかしい思いをしている。だから、叱り方もついついパターン化してしまう。よく使われるセリフが、「きょうというきょうは、許しませんからね」。なぜ、こういうことになるかと、「ママ怒る」という場面に、ついつい出来合いのパターンを使ってしまうからです。いろいろな局面には、いろいろな反応があってしかるべきなのですが……。

また、このことは、登場人物の類型化にもつながります。ジャイアンとスネ夫は、「いじめっ子」の類型です。この枠は設定場、はずすことができません。しかし、いつものび太がしかえしする、というパターンだけでは長い連載は持ちません。時には、「こいつが?」と思わせるような思いがけない一面を、ポロリと見せる。読者が、「あれっ?」と思ってくれれば、それはささやかな成功です。

そのためには、作者がキャラクターを生身の人間として、どれだけつかんでいるかが、たいせつです。人間は本当に複雑な生きものです。だから、まんが家はキャラクターを枠にはめてしまうのでなく、柔軟な目を持ってキャラクターの個性を生かし、ある程度自由に行動できるゆとりを持たせていくべきだ、と思うのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

 

 ■まんがの話術

 「まんがの話術」。あるいは、「まんが語」という言葉で表してもいいと思います。つまり、作者の気持ちを読者に伝える手段であり、絵とセリフで架空世界を創りあげていくテクニックです。これが、巧みであればあるほど有利であるのは、言うまでもありません。
 では、「まんが語」とは、どういうものであるか。近ごろはずいぶん様変わりしてきましたが、かつてまんがは子どものためだけのものでした。戦前の「くらくろ」などから現在のものに至るまで、世の移り変わりにつれて「まんが語」というものも、少しずつ変遷してきているように思います。絵も違ってくれば、セリフも違ってくる。それは、まんががそれぞれの時代に密着して、息づいてきた証拠ではないでしょうか。なまじひとつの法則を作り上げ、それに固執していると、どんどん時代に取り残されてしまう。かといって、時代に合わせてばかりいては、視点を見失う。「まんが語」とは、そんな曖昧模糊としたものです。
 この「まんが語」を、いかに巧みに習得するか。むずかしく考えて、いろいろと分析を加えたり、系統立てて法則を見いだしたり…そういうことは、やってできなくはありません。たとえば、コマは原則として右から左へ、上から下へ動く。一コマの中にも時間の流れがあり、右側のセリフは左のセリフより先に読まれることになり、右のアクションは左のアクションより先に生じたもの、という印象を受ける。あるいは、まんがのテンポは絵の密度、セリフの長さ、コマの大きさといったものの相乗効果で生まれてくる……。
 そういったことを理論づけて学んでいくことは、不可能ではありません。しかし、それでは、実践の身にはつかないと思います。外国語も同様で、学校で何年も何年も英語を習っても、いざ外国に行けば、なんの役にも立たないことがあります。それより、陽二がまわりのおとなのしゃべるのを聞いて、知らず知らずのうちに言葉を身につけていくような、つまり、実践の場で話術を学んでいくことが、たいせつではないでしょうか。けっきょく、外国人の中にとびこんで英語をしゃべりまくるように、自分の手でかいてみて、おおいに「まんが語」を使いまくることが有効な手段である、と思います。
 もちろん、「何を語るか」もたいせつですが、「いかに語るか」という側面がないと、せっかくの面白い考えも読者に伝わらないことになります。たとえば、「古池に蛙が飛びこんで、ボチャンといった」ということを単に表現しただけで、何百年もの生命を持つ芸術たりうる言葉もあります。ぼくは落語が好きなのですが、同じ噺でも、いわゆる名人と呼ばれる人がしゃべるのと、前座の人のそれとでは、受け取られる面白さがまったく違います。つまり、表現技術に価値がある、ということなのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

 

 ■キャラクターの独り歩き

「キャラクターの独り歩き」という言葉を、お聞きになったことがありますか?作者が創りあげたキャラクターだからといって、それは必ずしも100%作者の意志によって動くということではなく、あたかも自分が独自の意志を持って行動を始めるかのような部分ができてくる。そうした変貌を、「キャラクターが独り歩きする」というのです。

また、そういった独り歩きするようなキャラクターが、作品がヒットするための、ひとつの条件ではないか、とも言われています。「独り歩きをし始めたとき、初めてそのキャラクターは、生命を持ったといえるのだ」──そういう意見も、多いようです。

たとえば、ぼくの例で言いますと、「オバケのQ太郎」です。初めて雑誌に登場した頃は、頭の毛は三本ではなく、まあ十本近くあったのではないでしょうか。からだも、ちょっとくびれたようなひょうたん形で、全体的にボリュームもありました。なにか気心の知れない不気味さも、初めのうちは少しあったのです。それがかき進んでいるうちに、ふと気づいたら毛が三本になっていて、体形もスマートになり、いくぶん小作りになっていた。それは、作者が意図的にそうしたのではなく、かいているうちに何かそういう必然性があって、あの形にまとまっていった、という感じがするのです。

同時に性格も、次第にはっきりしてきました。ズーズーしく、食欲を思うまま発揮して、お人好しではあるが、まことに近所迷惑なおせっかい……。いきいきと動きだしたのは、連載が始まって何か月かたってのことでした。そうなって初めて、本当のオバQ人気というものが出てきたのだ、と思います。

作者が最初にキャラクターを設定するときは、何もないところから創りだします。一応の青写真は描きます。「やたら食いしん坊」とか「お人好しでおせっかい」とか、ある意図を持ってキャラクターを創るのです。その段階では、単なる設計図にすぎません。血肉を持った存在ではありません。かいているうちに、キャラクターがまんがを作ると同時に、まんががキャラクターを作っていくという相乗効果が始まり、次第に作者も意図しなかったような思いがけない一面をちらりと見せたりするようになる。そういった面白さが生まれ、それをどんどん取りこんでいき、初めてひとつの完成したキャラクターができあがるのです。

とはいえ、キャラクターの独り歩きにまかせっぱなし、というわけにはいきません。行き当たりばったり、やりたい放題でやっても、それは散漫でとりとめのないキャラクターにしかなりません。また、生みの親としての責任の放棄ともいえます。そのかねあいを、ひとつの呼吸として見つけていかなければならない──それが、作家の使命ということになるわけです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

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