漫画論 2

 

 

 ■人間が描かれているまんがとは?

 非常によく使われる言葉ですが、「人間を描く」ということ。はたして、いつからぼくの脳裏にあったかは、記憶にありません。
 映画が大好きで、昔からよく見ていました。ひとつの映画が傑作か駄作かを分ける大きな要素として、「人間が描けている」「描けていない」と言われることがあります。あたかも、わかりきったことであるかのように、映画を批評するときに使われています。あるいは、小説の批評でも、取り上げられています。
 高校生の頃、手塚治虫先生の「メトロポリス」という単行本が出ました。まだ宝塚にお住まいだった、ごく初期の頃の一冊です。たいへんな感動をもって読み終えたのですが、その後書きに「心残りだったのは、ページ数の関係で各人物を掘り下げていけなかったことである」とありました。ぼくは、「へえーっ」と思いました。もう十分面白いと思っていたからです。まんがでも、そうなのか。「人間を描く」というのは、そんなにたいせつなことなのか。ほかならぬ手塚先生のおっしゃることですから、ぼくは肝に銘じたものです。
 では、まんがで人物を描くには、どうしたらいいのでしょうか。まんが入門書なるものもぼつぼつ出始めていた頃ですが、そういう本を読んでみても、「人物の描き方」といった項目は一切ありません。もちろん、「絵はこういうふうにかけ」とか「表情の変化を勉強しろ」とかテクニカルなことはいろいろ書かれていますが、「人間の本質はこうすれば描ける」などといったことは、かつて読んだことがありません。
 これは到底ぼくにわかることではない、と半ばあきらめていました。それよりも、話を面白く作ることのほうがたいせつじゃないか、とも思いました。面白い話があって、カッコいいヒーローがいて、見るからにワルそうな悪者をやっつけて……。それで面白ければと、ぼくはとりあえず、まんが家としてスタートしたのです。
 けれども、この問題は、折りにふれて頭の中で蒸し返されるのです。そのうちに、映画を見ても、映画の面白さを決める要素は、必ずしも波瀾万丈のストーリーだけではない。そんな単純なものではない、ということが少しずつわかってきました。大スペクタクル映画で何万の軍勢が激突する場面があっても、それだけでは面白くないのです。淡々とした日常を描きながらも、共感をよせる人物がいて、妙に心を惹きつけてはなさない映画もある。ひょっとしたら、これが、人間が描けているかどうかではないか、と思いました。
 そういった、共感を呼ぶ人間を創っていくには、どうしたらいいのか。本当のところ、ぼくにはよくわからないのです。けれども、まんがなりのデフォルメを加えながら、少しずつ少しずつ、「こういう人間がいるかもしれない」、と体温を感じさせるような人物を創っていきたい。そう思いながらまんがをかいているのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん下」より  

 

 ■マイナスを転じてプラスとする

 そもそも、まんがのストーリーというものは、じつに多様多岐にわたっております。近ごろでは、ぼくらが今まで「常識」としてきたことを踏みはずした作品もどんどん増えてきて、とても人ごとではありません。といっても、「マイナスを転じてプラスとする」ということが、もっとも基本的パターンのひとつではないでしょうか。
 ぼくがプロレスというものを初めて見たのは、力道山の全盛時代でした。そして、「これはひとつの、純粋なドラマだな。」「凝縮されたエッセンスみたいなものだな」、と思いました。力道山は最初、悪役にいじめられて何度もピンチに陥る。これはつまり、マイナスの状態です。そのうち空手チョップという秘伝の荒わざで、たちまち逆手勝利をおさめる。ここで、プラスが成立するわけですね。
 「ドラえもん」では、のび太が典型的なマイナスなのです。頭が悪い、顔が悪い、力が弱い、何もできない、気は弱い……。このマイナスだらけの人間をプラスにするべく、ドラえもんがやってくるわけです。首尾よくプラスになって、めでたしめでたしで終わる話もありますが、かえってもっとひどいマイナスに陥るようなバリエーションも考えられるわけです。だから、「マイナスからプラスへ」というのは、必ずしも固定したパターンではないのです。
 ただ、ひとつ言えるのは、マイナスとプラスの落差が大きければ大きいほど、読者の受けるインパクトも大きい。したがって、面白いということが言えます。ひとつひとつのエピソードにおいて、この「落差」というものを念頭に置いて強調していく。マイナスから段階を徐々にステップアップして、最後に高みにかけあがる。これがすんなりいっては、面白くない。あがろうとするのを後ろへ引きもどそうとする地球の引力みたいなものを、いろいろな形で登場させることで、話が面白くなってきます。スポーツ根性ものなら、強力なライバルが現れる。つぎからつぎへと強い敵が、それを倒すとさらに強い敵が現れる。少女まんがなら、意地悪なクラスメートがいて、陰に陽に嫌がらせをする。こういった、「マイナスを保存しようとする勢力」というものを必ず用意して、これと闘いながらプラスプラスへと登っていく。この段階を形成するにあたって、ひとつ気をつけなければいけないのは、キャラクターの心理の動きです。主人公の心の動きに無理があっては、読者の共感を得られません。
 ごちそうを食べる場合、ふたつのタイプがあります。うまいものから先に食べていくという人と、うまいものは残しておいていちばん最後に食べるという人。ぼくは、後者のタイプです。食事もドラマのひとつであるという考えからすれば、後者のほうが正解ではないかな、と思うのです。徐々に徐々においしさの度合いというものを増していき、最後に爆発的な喜びをもって食事を終える。まんがの形もそうありたいものだ、と思うわけです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん下」より  

 

 ■人気まんが家は普通の人!?

 「人気」なんてものに、あまりこだわっているっていうのは、何か次元の低い卑しいことみたいなイメージがあります。「人気なんて関係ない。自分のかきたいものを。人気のあるなしにかかわらずかいていくんだ」──それはそれで、そういう姿勢も立派だと思いますし、あつてもいいと思います。しかし、プロのまんが家であるということは、その作品を出版流通経路にのせて、何万、何千万という単位の読者を相手にするわけです。
 つまり、自分の頭の中で創りあげた架空世界を紙に定着させ、それを読者に伝えて読者の共感を得たいとか、あるいは喜ばせたい、楽しませたい、感動させたい……。そういう気持ちがあったから、プロのまんが家になったのです。それならば、対象となる読者の人数は、多ければ多いほどいいわけです。そして、大勢の読者が支持してくれるまんが、すなわち人気まんがということになります。これは、やはり、まんが家として目指すべきひとつの目標だ、と思うのです。
 ところが、この「人気」というものは、すこぶる正体がとりとめのない漠然としたものです。それでもやっぱり、それぞれの時代にはその時代の人気を集める作品というものが、常にあるわけで。じゃあ、その人気まんがを、どうやってかいたらいいか。そんなことが一言で言えたら苦労はしないのですが、ただひとつ言えるのは、普通の人であるべきだ、ということです。
 人気のあるまんがをかくということは、けっして読者に媚びることではありません。小手先のテクニックで、「こうかけば、人気が出るんじゃないか」とか、「こういうことをかけば、受けるんじゃないか」──そういうやり方では、作れないのです。
 人気まんがというのは、どういうまんがであるか。それは、まんが家の表そうとしているものと読者の求めるものとが、幸運にも一致したケースなのです。つまり、大勢の人が喜ぶということは、共感を持つ部分が、そのまんが家と読者の間にたくさんあった、ということです。かたよったものの見方や考え方をする人は、大勢の共感を得ることはできない。だから、まず最初に普通の人であれ、というのはそういう意味なのです。
 そのうえで、ただ本当に普通の人であったのでは、まんがなんてものはかけません。プラスアルファ──なにか自分だけの世界を、ひとつは持っているべきである。それは、必ずしもまんがに直結したものでなくてもいいのです。釣りが上手であるとか、模型作りに熱中するとか、SF小説を読みあさるとか。そういったことが、その人の奥行きになって、しごくありふれたものにプラスして、何か個性みたいなものが生まれてくるんじゃないか、と思うのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

 

 ■「子どもまんが」をかくということ

 子どもの世界を描き、その中で「ほんとうの子ども」を活躍させるためには、かつて自分が子どもだった頃をふりかえって、その姿を自分の主人公に投影しながら描いていきます。じつは、意外とこれが、むずかしいことなのです。
 人間は成長していくにつれて、自分の視点が少しずつ高くなってきていることに、なかなか気づきません。小さい頃と今とでは、いつのまにか視点が違ってしまっている。自分は、まぎれもない子どもを描いているつもりでも、ひどいときにはそれが子どもの姿をしたおとなであったり、おとなが外から観察し概念的にとらえた子どもであったり。そういう危険性が、往々にしてあります。
 ジェネレーションギャップというのも、そういうところから生じてくるのだ、と思います。以前、電車の中で女子中学生と思われるグループが、興奮して話し合っていました。話の内容から察すると、どうもその子たちは中学二年生らしく、さかんに嘆いているのは、「近ごろの一年生どもは……」ということでした。わずか一年の間に、これだけのズレができてしまうのです。ですから、自分がまぎれもない子どもだった頃の姿を、修飾したり歪曲したりすることなく、一所懸命探ろうと努力することがたいせつだ、と思うのです。
 ぼく自身の経験から、意外と簡単で有効だった手が、ひとつあります。ぼくは子どもが三人おりまして──今は、みな大きくなりましたが──ほどほどの理解力がついた頃から小学校にあがるまでの間、ごく幼い童話から高学年程度の児童文学と呼ばれるものまで、いろいろな本を読んでやりました。これらを読んでいて、思い当たることや、なるほどと思うこと。身につまされることや、かつて自分が子どもだった頃をあらためて思い知らされることが、ちょくちょくありました。
 そもそも文学というものは、人間を追求し、人間を描くことを目的とします。ですから、すぐれた文学を読めば、ファーブルが昆虫を冷静に観察しその生態を描いたように、非常にいきいきとした本当の子どもの姿が描かれております。ぼくらが子どものときに読んで、とても感激した「トムソーヤの冒険」などは、いまだに多くの人に読まれています。百年ほど前の作品ですが、しかし、あらためて読んでみると、今の子どもたちに重なる部分が、とても多いのです。
 古い作品であっても、名作と呼ばれるものの中には、おとなが読んでも面白い要素が無数にあります。そういうものを読み取っていくことが、自分のまんがに本当の子どもを投影させていくうえで、ひとつの有効な手段ではないか、と思います。
 ぼくも今まで、そんなふうにしてまんがをかいてきました。子どものために本を読んでやったという体験は、じつは自分のためにとてもプラスになった、と考えています。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

 

 ■いただきのすすめ

 「いただき」というものは、なんの手がかりもなく無からアイディアを創りだすのではなく、過去に見た映画やまんが、あるいは読んだ小説でも、何か感銘を受けたものがあれば、それを自分の作品世界に再現することです。しかし、母体となる「感銘を受けた作品」を、キャラクターを入れかえたり背景を取りかえたりして、そのまま使ってしまうのは「盗作」であって、「創作」ではありません。そうではなく、その作品のどういうところに自分が感銘を受けたのかを知ったうえで、作品の皮や肉を一切取りのぞいた骨組みの部分から、自分だけの世界を再構築していく、ということなのです。
  「いただき」の例として、ぼくがしばしば挙げるのが、「のび太の恐竜」です。そして、母体となった作品は、「野生のエルザ」です。アダムソン夫妻がアフリカのサバンナで、親を失った子どもライオンを手塩にかけて育てます。別れがたいまでに愛情が深まりますが、ライオンの将来を考えれば、もとの原野へ戻したほうがよい。そう決意した夫婦がさまざまな苦労をして、ライオンに野生を取りもどさせる、というストーリーです。そう思ってごらんになれば、「のび太の恐竜」について思いあたられることも多い、と思います。
 この、「野生のエルザ」が母体であるというのは、話をわかりやすくするためのひとつの好例でありまして、じつは、似たようなモチーフやパターンを、ぼくはデビュー当時からいろいろな作品の中で、くりかえし使っているのです。つきつめていけば、愛する者を愛するがゆえにつきはなすという自己犠牲。その非常にせっぱつまった心理が、骨子になっているわけです。
 ふりかえってみますと、この路線にのっとった作品というのは、過去の小説とか映画、ひょっとしたらまんがにも、ずいぶん多く見られます。そして、「のび太の恐竜」も、そのひとつであるということです。考えてみますと、この世の中、本当に新しいまったく無から創りだす創作というものはなく、過去の作品になんらかの影響を受けずにいられないのではないか、という思いがしてきます。
 たとえば「原子」ですが、その数は限定されています。地球のみならず宇宙の果てまで行ってもまったく同じ原子が結びつき、さまざまな分子となり、それが岩にもなり、水にもなり、植物や動物などの生物を構成しているのです。ひょっとしたら、太古にティラノサウルスを構成していた原子が拡散して、今のぼくらの体を再構成しているのかもしれません。同じものが、組み合わせを変えただけで、さまざまな相貌をとっている。そういう考え方に立ちますと、「いただき」ということは、盗作にならない限り、けして悪いことではない、と思うのです。
 古い素材を組み立てなおして、まったく装いも新たな新作を創りだす。それが、ぼくが言う「いただき」ということなのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん上」より  

back 31 next
 

メール ホーム  (C) copyright 1997-1999 Junichi T