漫画論 1

 

 

 ■まんがという表現形式

 とても素朴な話をしてみたいと思います。話というより独言というべきかもしれません。永年まんがを描いていながら、時どきフッと感じる、このまんがという表現形式についての不思議さです。共感していただけますか、どうでしょうか。
 例えば目です。僕の場合、登場人物(動物も含めて)のほとんどは、円の中に黒玉を描いて目を表わします。現実にそんな目があるわけじゃない。昔からのまんががそう描いてきたから、見よう見まねで描いているに過ぎません。だから時どき不安になるのです。これ、ほんとに目に見えるのかな…と。
 今のまんが界では目の表現も多様化され、黒点チョンチョンから、上下のまつ毛まで描きこんだリアルな物まで様ざまな目が取りそろえられています。一時期の少女まんがなど、大小十個にもおよぶ星をちりばめたプラネタリュウムみたいな瞳まで出現したのですが、これら大目玉までひっくるめてすべてちゃーんと、人間の目として通用しているのです。
 それから煙です。煙はたしかに目に見える。しかしその形を説明しようとしてもできるもんじゃない。文字通りモヤモヤしてモウモウとして取りとめないのです。それを、まんがは何本かの円弧か、短かい斜線の組み合わせでとにもかくにも表現するのです。
 風も不思議です。空中に何本かの線を浮かべて、それが風に見えるのです。大きな音、驚き、物の動き、すべて簡単な線で表され、読者も何の抵抗もなく受け入れています。実に不思議です。
 何よりも不思議なのが輪郭です。一本の線でグルッと囲っただけで、その中の空間が顔になり、外の空間は外界になる。これはまんがに限りません。洞窟に残された古代の壁画。長方形に区切られた空間は、角と四肢を意味する六本の短線をともなうことで牛を表します。牛を描こうとした古代の画家の意志は、何万年もの歳月を隔てた僕等にも確かに伝わってくるのです。
 生まれたばかりの赤ん坊は目が見えません。この見えないという意味が、大人と赤ん坊では少し違うようです。水晶体は確かに網膜に影を落しているのですが、それを情報として受けとめるメカニズムが完成していないということらしいのです。二つの黒玉が並んだパターンを見せると反応を示すそうです。赤ん坊は、その黒玉に保護者、つまり母親の目を感じているわけです。これはまったく先天的な、遺伝情報に含まれている感覚なのですね。
 ひょっとすると、まんがというのは人間が基本的に持っている、ある意味では非常に原始的な感性に訴えることで成り立っている、そんな表現分野なのかも知れませんね。

昭和57年 小学館刊 藤子不二雄自選集6『ドラえもん 風刺の世界2』より  

 

 ■昔を思えば百八十度の大転換

 自選集も巻を重ねて、これで9冊目。洒落たデザインの表紙、ガッシリした造本。解説に日本の各界を代表される方がたをわずらわし、書棚にならべてみればいかにも“書籍”という感じ。とても自分の描いたまんがの本とは思えません。永い間漫画家をやってきたよかったな、とシミジミ感慨にふける次第であります。
 昭和二十六年「天使の玉ちゃん」毎日小学生新聞連載でデビュー。二十九年上京。本式に活動を始めたわけですが、その頃の児童まんがを取巻く状況は、それは厳しいものでした。「俗悪まんが追放」が声高に叫ばれていた時代です。マスコミに児童まんがについての記事がのれば、それは決って批判非難の物でした。「俗悪まんが(つまり児童まんがすべて)は暴力的であり、反道徳的で痴呆的で、報知すれば日本中の子供を汚染するであろう。」というのが共通した論旨でした。「当店にはまんがを起きません。」と広告したデパートがありました。選挙運動で空地にまんがを山積し火をかけた候補者もいました。そうそう、漫画家を主人公にしたラジオとテレビのドラマがありました。どっちの主人公も売れっ子で稼ぎまくっているわけです。そのうち良心に目ざめ、筆を折るのがラジオの主人公。一方テレビの主人公は、周囲の白い眼にも屈せず描き続けます。悪は栄えず。その漫画家の息子が彼のまんがを真似て高い所から飛降り大ケガをします。「身から出た錆だ」と近所の人がつぶやく場面でドラマは終るのです。まさに児童まんが受難の頃、渦中にあったぼくらにしてみれば、永遠に続くかとも思えた暗黒の時代でありました。それでもぼくらはまんがを描かずにはいられなかったのです。描き続けて良かったと思います。しかし……。
 嵐は去り春が来ました。盛夏を迎え、その後ずーっと盛夏が続いています。漫画家は描きたい放題。読者は読み放題。まんがを目の敵とするお母さんもいないではないが、それはまんがの内容よりも、子供たちの勉強時間を蚕食する存在への敵視です。今時まんが批判などしても、時代錯誤のオジンオバンが何言うかと冷笑されるのが落ちでしょう。昔を思えば百八十度の大転換です。しかし…。
 親や先生の目を盗んでまんがを読んだ、罪悪感を伴ったあの喜びは、今の読者には無縁の感覚なのでしょうね。地下組織の同志みたいな、作者と読者の堅い連帯感も、もうありませんね。今の読者は、ありあまる程のまんがに囲まれ、斜め読みしながらゲップを洩らしてる。昔のまんがは質量ともに貧しかった。それだけに探しあてた好きなまんがへの思い入れは深く激しかったのです。
 偏見にこり固まった批判勢力も、一方にあっていいんじゃないですかね。そんな圧力に屈して筆を折るようなら、それは本物の漫画家じゃない。子供が叱られたぐらいで離れるなら、それは本当のまんがではないのです。

昭和57年 小学館刊 藤子不二雄自選集10『パーマン』より  

 

 ■小さな断片を紡ぐもの

 まんがというものを分解してみますと、結局は小さな断片の寄せ集めなんですね。
 たとえば、「ドラえもん」です。未来の世界のネコ型ロボットというものは、かつて存在しなかったものです。ところが、これをひとつひとつの部品に分解してみますと──まず、「未来」。これは、ひとつの既成概念です。それから、「ロボット」これも、チェコスロバキアの劇作家で小説家のカレル・チャペックがその作品の中で創造して以来、もう誰もが知っている周知の断片ですね。それからネコも、そのへんにウロウロしているわけです。これら、三つの断片を寄せ集めることによって、「ドラえもん」というそれまでなかったものができてくる。
 さらに、何か次々に便利なものを取り出す入れ物がないか……。そこで、「ポケット」という既成概念に、「四次元世界」というちょっと特殊な既成概念をプラスして、「四次元ポケット」を作る。ひとつひとつの断片をとってみると、新しいものは、ひとつもありません。ところが、それを組み合わせてみると、まったく新しいものが、そこに姿を現すのです。
 まんが家がまんがをかこうとする場合、頭の中にしまいこまれている断片の集団を、あれこれいじくりまわして、あれが使えそう、これが使えそう、と組み合わせたり捨てたり組み立て直したり……。そういう作業の結果、ひとつのアイディアがまとまってくるのです。これは、ほとんど無意識の領域で行われているのですが、やはり、なるべく面白い断片を数多く持っていたほうが勝ち、ということになるわけです。
 それでは、まんが家がそういう断片をどこから拾ってくるかというと、生まれてからこのかた現在まで、自分を取り巻く環境から、接収しているわけなんですね。本を読んだり、テレビや映画を見たり、人と話したり、見たり聞いたり……。そいったすべてが断片となって頭の中にあるわけですが、それが未整理のまま混沌としたままであったのでは、手のうちようがありません。自分なりの価値づけを持っていて、はじめてアイディアとしてまとまるのです。つまり、まんが家はフィルターを持っていなければならない。あるいは、フィルターを持った人がまんが家になる、といったほうがいいのかもしれません。
 フィルター─必要な情報を選別して取りいれるという、そういう能力のことです。普通ならば聞き流したり見過ごしたりしてしまうようなことも、まんが家はフィルターを通して、感性に訴えるものを蓄積していく。そこから新しいものを創りだす。たえず目と耳を開いて、目的を持って情報を収集する。こうした努力が、創作につながっていくのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん下」より  

 

 ■かけばかくほど…

 まんが家を志している型に、ちょっとしたアドバイスにでもなれば、と思います。
 とにかく初めのうちは、精力的に執筆活動をされたほうがいい、と思うのです。と言いますのは、人間の頭脳──アイディアを生み出す能力というものは、学習能力のあるコンピュータみたいなもので、かけばかくほど、ひとつの方程式みたいなものが、自然と頭の中にインプットされていくのです。そのうち、新しい材料をそこに放りこめば、アイディアがかんたんに出てくるようになる。これは、ぼく自身の経験から申し上げることです。
 ですから、なるべく多くの作品を──それが、ものになってもならなくてもけっして無駄ということにはなりませんので、貯金だと考えてどんどんかかれることを、お薦めいたします。
 かくということは、吐き出す行為でありますから、それだけではたちまちスッカラカンになってしまいます。そこで、摂取するということ。つまり、面白いことを求めて貪欲になっていただきたいのです。これはもう、なんでもいいのです。活字でも映像でも、刺激を受けるタネはどこにでもあるわけです。
 こうして、どんどんかいていきますと、ひとつのスタイルというものができまして、その人なりのまんがが完成するのです。ところが、だいたい新人のまんが家がデビューしまして、持ち味とか新鮮さとか、そういう魅力で読者を惹きつけていけるのは、一〜二年かせいぜい三年が限度です。あとは、たえず新しい血を入れて、目先を変えて、自分のスタイルを変質させていかないと、読者に飽きられてしまいます。だから、自分のスタイルに挑戦していくということが重要な課題になる、と思います。
 ぼく自身を振り返ってみますと、だいたい二十代から三十代あたりが、一番アブラがのりきった時期で、次から次へとアイディアが出てきたものです。はじめのうちは、かきたいまんがとか、かきたい材料を手帳にメモしてあっても、これをかいちゃったらあとはどうなるのだろう、という恐怖がたえずありました。ところが、そんなことはありませんで、かけばけっこうアイディアは出てくるものでした。ちょうど「オバQ」ブームのまっさかりで、一か月の間に二十何本も話を作ったこともありました。
 その頃は──ちょうど三十代の前半だったのですが、猛烈なスピードでアイディアが湧いて出ました。だいたい十三ページぐらいのアイディアが三時間もあればまとまって、次の仕事にかかれたものでした。今から思えば、あの頃はよかったなあなどと思います。四十歳を過ぎますと、一応今までの経験とか蓄積が、ひとつの武器となるのですが……。若い方々には、まだまだ先の話です。さしあたっては、精力的に作品を生み出していただきたい。そう思います。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん下」より  

 

 ■手帳に貯蔵!?まんがのタネ

 アイディアのたて方に、きまった方法があるわけではありません。なにか数学の公式みたいなものがあって、「コレを掛けてコレで割れば、答えが出る」ということならたいへん楽なのですが、残念ながらそういうものはありません。ですから、プロのまんが家の人たちは、それぞれ自分に合った方法でアイディアをたてており、おそらく苦労せずに捻りだせる人はいない、と思います。
 ぼくの場合は、まず、思いついたときに、手帳にすぐメモしておきます。まんがのタネみたいなものですね。アイディア以前の、ほんのちょっとした思いつきみたいな、「ひょっとして、コレをふくらますと、面白いまんががかけるかもしれない」というタネを、思いつくたびに書いております。これは、人が見ても、なんのことかわからない、と思います。自分自身あとで読みかえして、「これ、なにを書いているんだろう?」なんてことも、ちょいちょいあるのです。
 このとき、タネをふくらませずに書いておくことが、たいせつなのです。つまり、タネの鮮度が落ちるというか……。もしも、その中にすばらしい爆発力を秘めているタネであっても、事前にいじくりまわしていると、新鮮さが失われて起爆力がなくなることがあるのです。
 そして、いざまんがをかき始めるという段階になって、手帳から何粒かのタネを取り出します。それから、ひとつひとつ、どれがモノになるのか、ふくらませてみるのです。人それぞれですが、ぼくの場合は朝がいちばん頭が冴えます。夜はなるべく早く寝て、そのかわり朝五時半頃に起きて、およそ一時間半、時には二時間くらいの間、アイディアを考えるわけです。そのとき、何も手がかりがつかめないと、その日はずっとアイディアを考え続けて一日を空費してしまうことが、よくあります。そういう日には、アイディアを必要としないような……。例えば、表紙をかいたり、単行本のまとめをしたり、そういうことをやりながら、頭の中ではタネをころころ転がしながら仕事をし、次の朝、また五時半頃に起きだして、続きを考えるわけです。
 「ドラえもん」の場合、手帳から取り出したタネが面白いかそうではないかという以前に、ひとつの特殊な事情が出てきます。今まで1000以上話を作ってきたのですが、そうすると、アイディア云々の問題よりも、話の展開のパターンが過去にかいた作品のどれかに似てしまうということがあるのです。それでは、困るわけです。新しい切り口がないものかと、ひっくりかえし、表かえして考えるわけです。ときには、過去に使ったふたつのアイディアを組み合わせて、一見新しげなまんががかけるんじゃないか……。そんなことを、思いついたりもするのです。

平成10年3月 小学館 「藤子・F・不二雄自選集ドラえもん下」より  

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