タイトル

 ■夢みる理性─藤子不二雄の異色短篇について

瀬戸川猛資   

  稀代のストーリイ・テラー

 のっけから弁解めいて恐縮だが、僕は最近の漫画のよい読者ではない。
 漫画を読む意欲が衰えたのは五年ほど前からで、理由は一にぼくの好みに合う作品がめっきり少くなったことによる。新刊本で買って読むものといえば、手塚治虫の全作品とちばてつやの「のたり松太郎」、それに買いはしないが必ず読むのが黒鉄ヒロシ、といった程度だから、なんともお粗末な読書量で、ぼくの周囲に大勢いる漫画オーソリティたちにかかると「遅れてるう」という烙印を押されてしまう。
 それでも、大好きなSFや怪奇漫画だけはまめに読んできたつもりだが、これがどうにもいけない。イメージだけはむやみに派手で強烈で、センサラウンド付スーパー・ヴィジュラマ方式みたいな画面がぐわぁっと迫ってくるのだが、それを支えるストーリイとドラマ構成が貧弱なため、全体としては少しもおもしろくない、というタイプの作品が多いのだ。
 そのあたりの弱さをカバーするため、なかには、外国の著名な小説や映画からプロットを借りてくるものがある。こちとら、SFやファンタジイやミステリに関する限り、それなりの知識は持っているつもりで、だいたいの場合、もとネタが読める。秀れたプロットを下敷として借用することは、なにも漫画にかぎらず、他のジャンルでも頻繁に行われていることだが、やる以上は、よく練りあげてオリジナリティを加えてもらいたい。露骨ないただきや名作のタイトルを安易に言い換えたりしただけのものは、やはり腹が立つ。こうした作品を読むと、今さらながら、手塚治虫という人はワン・アンド・オンリーの偉大な漫画家なのだな、と感心させられてしまったりするわけだ。
 で。SF漫画のそうした傾向が目についてイヤになりかかっていた一年半ぐらい前のこと、書店で藤子不二雄の『ノスタル爺』という短篇集を買った。
 それまで、藤子不二雄という漫画家は好きでも嫌いでもなかった。しいて言うなら、ちょっと好き、ぐらいだろうか。大ヒット作の『オバQ』をはじめ『わかとの』『パーマン』『21エモン』といった少年向けギャグ漫画はおもしろく読んだが夢中になるというほどではなかったし、『魔太郎がくる』『黒いせえるすまん』『プロゴルファー猿』などのブラック・ユーモア風の作品にもそれほどには乗れなかった。
 したがって、この『ノスタル爺』もべつに期待もせずに買った。タイトルが気に入ったのと、“異色短篇集”と書いてあったのにひかれたにすぎない。
 それが一読三嘆、いや五嘆ぐらいしてしまったのである。この本には七つのSFとファンタジイが収録されているが、いずれもすばらしい。
 とりわけ、『カンビュセスの籤』という作品には驚かされた。これは、ヘロドトスの史書に出てくる故事に材をとり、人類の生と死の意味を壮大な時空間の中でとらえた鬼気迫る傑作である。まず感じたのは、あまりに話が出来すぎている、ということだった。さほど筆力のない作家が、これをそのまま小説化しても傑作になるのではないか、と思えるぐらい見事なプロットなのだ。てっきり、これはもとネタがあるにちがいない、と愚かにも考えてしまった。
 ひどい下司の勘ぐりをやったものだ。ちょうどそのころ、ぼくの知る最高のSFのオーソリテイであり同時に漫画狂でもある鏡明氏に会い、藤子漫画の話をしたのだが、『カンビュセスの籤』に関して彼は、「いや、あれに似たSFなんかないと思うよ」と保証してくれた。が、そうした言を待つまでもなく、かの作が純粋のオリジナルであることは、藤子不二雄の短篇を数多くお読みになった人なら、おのずとわかることだろう。
 小学館ゴールデン・コミックスから刊行されている四つの短篇集『ミノタウロスの皿』『やすらぎの館』『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』『ノスタル爺』、および朝日ソノラマの『宇宙人』等に収められている藤子不二雄の一連の異色短篇は、絶妙の着想と強じんなドラマ構成に支えられた独創的な作品ばかりである。まれにはヒントを得た小説を読みとることができるけれども、それに独自のオリジナリティを加えて練りあげ、まったく別の作品に仕立て上げている。
 この人は、天性のストーリイ・テラーなのだ、この点に関するかぎり、現在の漫画界に対抗馬は見当らない。むしろ、比較すべきは小説界だろう。前述した作品集には、まぎれもなくあの“奇妙な味”があり、英米のその主の作家─ジョン・コリア、ジャック・フィニィ、チャーリイ・ボーモント、リチャード・マティスンらの短篇と同列に論じられても、少しもおかしくはないと思う。
 しかし、ぼくが藤子不二雄という漫画家を興味深く思うのは、そうした部分だけではない。この人が終始一貫した独特の思想と姿勢を持ち続けていて、それを作品の中で明確なメッセージとして打ち出している点なのである。以下、ごく大ざっぱにそれについて書いてみたい。

 

  生と死へのメッセージ

 藤子不二雄のSFやファンタジイを読むたびに感心するのは、これほど日本ばなれのした、反時代的な、反社会的な姿勢・思想を貫いている人も珍しいのではないか、ということだ。誤解されると困るが、ぼくの言うのは、決して“時代と寝る”ことをせず、時流や風潮に流されず、普遍的で巨大な視点を持っている、という意味である。
 そうした彼の特質の根底にあるものはなにか?一語で言うなら、“理性”ということに尽きる。
 最近流行の日本文化論にも色々と書いてあるけれど、日本という国は、何ごとにおいても理性よりも感情が常に優先する。
 それは文化現象全般に広くわたっていて、漫画の世界とて例外ではない。多くの漫画・劇画が、作の主題をひたすら感情面からのみとらえてゆく。そして、“詩情あふるる”だの“硬質の美学”だの“なんとか感覚”だのというゾッとしないことばを使って居なおるのである。
 が、藤子不二雄はちがう。彼は、現代社会の内包するさまざまな問題を狙上に乗せるが、常に理性をもってアプローチし、処理してみせる
 その格好の例が、“生と死”という根元的な大命題を扱った『間引き』という作品、これは、続出するコイン・ロッカー赤ん坊置き去り事件をめぐっての、ロッカー管理人と新聞記者の討論劇とも言うべきものである。
 なぜ、これほど頻繁にコイン・ロッカーに赤ん坊が捨てられるのか?それについて新聞記者は、この問題は氷山の一角にすぎず、陰に人類を動かす巨大な大自然の力が存在しているのだ、という。そして、次のような恐ろしい意見を述べる。
 「地球上のあらゆる動物には、全個体数に上限があり、平均増殖率はみなゼロに近い。もし、この上限が破られると、食物連鎖がくずれて絶滅するか、レミングのように死の行進を始めたりすることになる。ところが、人類のみはこの上限を破ってしまった。医学の驚異的な進歩と生命の尊重思想によって、いまや人口増殖率は2パーセントにも達している。このままでは、地球上の生物バランスは崩れるばかりだ。だから、大自然がそれを間引いて、バランスを保とうとしているのではあるまいか、最近の母性愛消滅現象もその一貫であり、コイン・ロッカーの捨て子事件となってあらわれているのではないか」
 これは、以前から時おり耳にする説だけれど、藤子不二雄はこの問題を、“人命の無差別的尊重”という点にポイントを絞ってとらえている。
 同じ主題が、『気楽に殺ろうよ』では、いっそう明確に扱われている。これは、明らかにリチャード・マティスンのSF短篇『ショック……』を下敷きにしたものだが、中味の濃さにおいてはマティスン以上である。
 あるサラリーマンが、朝起きてみると、とんでもない世界にいることに気がつく。一見、なんら変りはないのだが、実はこの世界、食べることが猥褻とされ、性行為がごくあけっぴろげなのである。さらには殺人までも、当りまえのこととして公認されている。
 頭がおかしくなった主人公は精神分析医のもとへゆく。医師は、主人公に向かって根気よく説得する。食欲とは固体を維持するためのものであり、独善的な欲望である。一方、性欲とは種の保存が目的であり、社会的で発展的な欲望である。どちらかを恥しがらねばならぬとしたら、食欲の方ではないか。また、殺人の公認に関しても、別に不思議なことではない。人類がバランスを保って生存してゆくためにはよい方法ではないか。
 最後に、作者は医師に次のような決定的なことばを言わせている。
 「なぜ、生命は尊重しなくちゃならんのです?」
 これは、恐るべき作品と言わねばなるまい。少くとも、現代の常識からすれば“危険な”代物だろう。なぜなら、ギルモア処刑事件やカレン裁判で世界中から注目されている死刑反対運動と安楽死問題の根幹をなし、ハイジャック事件の折などにはわが日本でも絶叫される、あの“人命は地球よりも重い”という社会通念に真っ向から対立しているからである。
 しかし、それは感情面からのみ眺めるから恐ろしいのであって、理性をもってとらえれば全くちがう意味を持つ。
 要するに、藤子不二雄がこの『間引き』と『気楽に殺ろうよ』で言いたいのは、“死”を理性的に認識しろ、ということなのだ。それは、誰もが避けられない、必ず体験しなければならぬことである。だから、“死”を一方的に恐れ、忌み、避けるのではなく、冷静に受け止め、そうすることによって逆に“生”というものの忌みを考えなさい、と言っているのである。
 この彼の主張のバックボーンとなっているのは、現在の地球的危機状況だろう。石油の枯渇によるエネルギー危機と凄まじい人口爆発による食糧危機。これらはたんなる予測でなく、近未来において必ず起こることだ。さんざん個々の“生”を賛美し、“死”を排撃してきた結果、こうなったのである。当然、大戦争は避けられず、人数は巨大な“死”を迎えることになる。にもかかわらず、有効な対策をたてようともしないのは、時間があるから、にすぎない。が、起こってからでは遅いのだ。だから、現在、考えなさい、と彼は言っているのである。『定年退食』『カンビュセスの籤』『大予言』といった作品も同じ主張に貫かれている。
 しかし、こうした理性的な思想は、現代の日本社会では通用しまい。マスコミや文化人と呼ばれる人々の多くが、「死を広めるという考えは危険きわまりない。ファシズムにつながるのだ!」とヒステリックな大合唱を繰り返しているからだ。
 おこがましい言い方だが、ぼくは藤子不二雄という人が漫画家でよかったと思う。「たかが漫画家じゃないか」というのが一般の文化人や大マスコミの考え方であり、それゆえ、あまり気にもかけられないだろうからだ。

 

  善と悪、偶然と必然の論理

 相対する二つの大命題を徹底して理性でとらえてゆく藤子不二雄は、“善と悪”の問題も好んで扱う。彼が描くのは、もっぱら“善の恐怖”である。一連のスーパーマンものがこれに入る。
 『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』の主人公句楽兼人氏は、悪を憎み、正義を愛する平凡なサラリーマン。ところが、ある日突然に、細胞がウルトラ・スーパー・デラックス化して超人になる。彼は世の中のありとあらゆる悪を絶滅せんと大活躍するのだが、その結果、人々から嫌われ、恐れられる存在と化してしまう。『わが子スーパーマン』『ミラクルマン』『耳太郎』なども同じ主題を扱ったものであり、宇宙船内での暴動を避けるために、憎まれ屋として悪のプロフェッショナルを乗組ませるという奇想天外なアイデアの傑作『イヤなイヤなイヤな奴』もこの延長線上にある。
 世の中、悪がはびこっても困るが、善ばかりでも成立しない。善はまた容易に悪に変貌するのだ、という“善と悪の論理”を、スーパーマンという誰もが憧れる小児的夢想で切り取って見せる。その手腕は鮮やかというほかはない。
 もうひとつ、藤子不二雄が異様なほど執着を示すものに、“偶然と必然”という命題がある。確率、暗合、と呼んでもいい。これには、彼の夢想家としての一面がよくあらわれている。
 『ドジ田ドジ郎の幸運』は、何をやってもつかない男が、“宇宙合目的調査機構”からやってきたロボットのゴンスケによって、徹底的にいかされるという物語だ。主人公は、偶然にも、出勤途中で財布を10個も拾ってしまう。偶然にも、満員電車の中で楽々と座れてしまう。会社へゆけば、偶然にも、彼と美人のOL以外の社員が欠勤している。そして、彼女と海水浴にゆくと、なんとその日に海へ行った人間は彼ら二人だけだった、というお話。
 『一千年後の再会』では、とてつもないスケールでこのテーマが繰り返される。タイム・マシンと亜光速ロケットによって、千年の時間と千光年の空間に隔てられた二人の男女が、驚くべき偶然の一致によって再会するという壮大なロマンである。
 いずれも、“確率の低さは超天文学的だが、ゼロではない。とすれば、起こってもよいのではないか”という一点の可能性にのみ賭けられた夢の物語。
 「偶然とは、実は地下の巨大な必然のつながりが、その一端を地表にあらわしたものであり、その真理は宇宙の永遠の謎である。」という意味のことを言ったのはエドガー・ポオであり、三島由紀夫も『美しい星』で同様なことを述べているが、藤子不二雄もまた、この宇宙的な永遠の謎、絶対の一致、というものに思いを馳せているのだろう。すばらしいロマンティシズムではあるまいか。

 

  醒めた夢想家

 藤子不二雄は、壮大な夢想家である。コリン・ウィルソンいうところの“夢見る力”の塊りであり、ホルヘ・ルイス・ボルヘスいうところの“一流の夢想家(ソニヤドール)”である。
 ただ、普通の人とちがうのは、その夢を常に理性のフィルターを通して見るということだ。これほど、醒めた夢を見る人も、あまりいないのではないだろうか。
 この点を考えてゆくと、彼が少年漫画を一所懸命に書き続けてきた理由もよくわかる。『オバケのQ太郎』や『ドラえもん』は、子供たちのための理性の教育漫画なのである。じっくり読めば、それはおわかりになるはずだ。あの二作がともに爆発的ヒット作となったのも、当然のことと言える。純粋な感情に支配されている子供たちは、藤子不二雄の描く理性に裏打ちされた夢を受け入れるのが楽しくて仕方がないからにちがいない。
 『オバQ』や『ドラえもん』を呼んで育った子供たちが、しっかりした理性を備えた大人になって社会を支えてほしい。そういう願いがこめられていると思うのである。

1980年 「別冊奇想天外 No.9 SFマンガ大全集 PART4」より

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