タイトル

 ■オバQと正ちゃんは同一人物である

草森紳一   

 オバQは、オバケなのか。
 オバQは、子どもたちのペットなのか。友だちなのか。
 オバQに対する批判として、オバケは、人間をつねにおびやかす、この世の不可思議なるものへの存在として必要なのであって、ペット化してしまったのは、子どものために好ましくないといった教育の見地にたった議論がある。オバケがかれらの友だちになり、あるいはペット化してしまうのはけしからんというのである。
 これはおかしな意見である。なぜならオバQは、オバケではないからである。オバQはなるほど、その姿は奇体であり、まんがの中でもオバケであることをはっきり宣言しているのであるが、そういったおもてむきのすがたに人は、あまりにもこだわりすぎているのである。楳図かずおと藤子不二雄を、オバケの立脚点から比較しようなどというのは、あきれはてた話なのである。オバQが子どもの心をつかんだのは、このオバケがすこしもこわくなく、親しみやすいものであったからではない。
 オバQに、わが分身をみたからではないか。このまんがでは、オバQは、一見、正ちゃんの友だちである。正ちゃんの子分みたいにもみえる。
 だが、けっして正ちゃんは主人公ではない。その子分であるオバケのQ太郎が主人公である。正ちゃんのキャラクターは、平凡であって、オバケのQ太郎の前にはかすみがちである。けれども、このようなみかたは、オバQと正ちゃんをあまりにも、べつべつな存在として疑わなすぎるところから、生じるのではないだろうか。一思いに、正ちゃんとオバQは、同一人物であると考えたほうがよいのではないか。
 正ちゃんは、ありふれた子である。腕白小僧かといったら、それほど腕白小僧というほどでもない。頭はよいかといえば、それほど悪すぎるということもないが、よすぎるということもない。好奇心は強いが、強すぎることはない。正義感はあるが、正義感の権化というところまではいかない。 
 個性ということからすれば、内弁慶のテレ助くんや餓鬼大将のゴジラや、ハカセくんのほうが強烈である。それはかれらがみな自分の肉体や性格にかたよった忠実な生きかたをしているからである。いわば偏見に生きているのである。
 それにくらべ正ちゃんは、平凡にすぎるのである。藤子不二雄のある一連のマンガにみられる魅力は、この平凡にすぎる、いわばまんがになりにくい人物に主要な役割をあたえていることである。これは、これまでのマンガにみられないお手柄というより、やはりこういう主人公は、まんがにならないのである。
 だが、大多数の子どもたちは、正ちゃんのように中途半端な子どもたちであるはずだ。これはたしかなことだ。
 そして、中途半端であるだけに、それなりの心理と行動の反復が心の中では激しく動いているものだ。いろんなことを欲望し、いろんなことを想像している。このこともまちがいのないところである。
 ただ行動したりしなかったりで、どこか曖昧になり、メリハリつかない、平凡な少年になってしまう。適応性はあるが、どこか一本たりない少年になってしまうのである。けっこう抑制心があり、自分の中の声を全部さらけだすことができないのである。いい子とわるい子の部分が中途半端にでたり隠れたりしてしまうのである。
 そういう平凡な少年である正ちゃんを捕ったのがオバケのQちゃんなのである。オバケのすがたをとっているけれど、正ちゃんのもう一つの顔であり、声なのである。正ちゃん自身が本体だとすれば、オバQは正ちゃんの影なのである。分身なのである。
 だからオバQは、正ちゃんの影である以上、子分でもなければ、ペットでもない。主従の関係にはない。友だちでさえないのである。おばけのかたちをしているが、正ちゃんがつくりだしたおばけであって、おばけではない。
 かりに大五巻の「のぞけ のぞけの巻」をとりあげてその関係をみてみよう。
 正ちゃんとオバQが、家へ帰ってくる。オバQが「ただいま」という。正ちゃんが「あっ かぎがかかっている ママでかけたな」と叫ぶ。この場合、二人がばらばらにしゃべっているようだが、実際は、正ちゃん一人がしゃべっていると考えてよいのである。分担しているようだが、一体なのである。
 オバQが、それをみて「はずしてくる」といって中にはいり、中鍵をはずして「どうぞ」という。正ちゃん一人なら、こんな芸当はできず、家のまわりをどこかあいていないかとガタガタうろついてブツブツいっていなければならないところを、正ちゃんの影、つまりオバQがいれば、あっさり解決してくれるのである。「僕がオバQであったならスーッと中へはいって鍵をはずしてこれるんだがな」と心で思ったことが、オバQを通してすべて可能になってしまうのである。
 二人は、家に入って「Qちゃんはべんりだな」と正ちゃんがいえば、オバQは「いやなにそれほどでも……」とけんそんする。これは自問自答しているのだといってよいのである。自分でほめて、自分でてれているのである。このようなことは、わたしたちの日常生活にあってざらにあることである。
 また「ところでなにかおやつはないかな」と正ちゃんが部屋をみわたした時は、オバQはもう行動をおこしているのであって、「ないようね」と家さがししながら答えている。正ちゃんが、もし一人でいる時なら、おそらく「おやつはないかな」と心で思ってもすぐには、なかなか行動しないことがあるかもしれない。おばQがいれば、正ちゃんは黙ってつったっているだけでぜんぶやってくれるのである。すなわちオバQがいれば、思うだけで行動しないこともしばしばある正ちゃんは、オバQを通して行動する正ちゃんにもなれるのである。
 つまり正ちゃんが心で思ったことはすべてQちゃんを通して、完璧な正ちゃんになりうるということである。
 思ったことはなんでも可能になる。ゴジラがデベソかどうか、隣の奥さんが靴を何足もっているかも、オバQに頼めば、すべてが居ながらにしてわかるのである。
 だがそんなことをしていると世間の評判が悪くなる。そうなると正ちゃんはすぐに心が傷つきオバQに「たんていなんかやめなよ」という。「いやだよ」「ぼくはひとのためにやっているんだ」とオバQは答える。この問答も二人の問答なのではなく、一人の正ちゃんの中に住んでいる「正ちゃんとオバQ」の問答なのである。独り問答なのである。評判が悪いから、やめろという声と、いやひとのためだからやめないという声とが正ちゃんの中で戦っているのだといってよい。
 結局この場は正ちゃんの中にあるオバQの声が勝って、つまり好意心のほうが、正ちゃんの良心より強かったわけで他人の家の夜のおかずはなんだろうと調べ歩くことになる。そういうオバQに、一人の謎の男があらわれて、いろいろとおどしをかける。「だれにでもひとに知られたくないことがあるんだよ」といってさとす。その謎の男の正体は正ちゃんで、どうしようもなく自分の中におこってきて暴走する好奇心をおさえる理由をついにかれは発見したのだともいえる。つまりお利口な正ちゃんの部分が、いたずら好きの正ちゃんの部分に勝ったゆえである。
 ラストは、近所へあやまりに行って帰ってきたオバQは、家が戸じま利してあるのをみて、すでに改心してしまっていて殊勝な自分にかえっているのでお化けの機能を用いて中にはいらず、雨の中をつっ立っている。正ちゃんは、「オバケだからあけなくてもスーッとはいってくるよ」と意地悪をいう。これでは、オバQと正ちゃんが二つに分裂しているようだが、実際はこのオチも、正ちゃんの空想の部分なのである。
 一人では心もとない平凡にして複雑な少年たちを、強い少年にするために、藤子不二雄は、正ちゃんにオバQをプラスさせたのである。この「オバケのQ太郎」を読む少年たちは、スーパーマンに自己を託すという形式ではなく、自らの分身を正ちゃんにのみ、Qちゃんによって自らを強くする方法論をえているのだといってよい。

1970年 虫コミックス 「オバケのQ太郎 8」より

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