タイトル

 ■ドラえもんは上等な魔術師

森 茉莉 (作家)   

 藤子不二雄を写真で見ているのはすでに何年も何年も(多分十年とちょっとだが、私には時間の概念が薄いのでよくはわからない)前からだが、藤子不二雄がベレーを額の上に真直ぐに被っているのが、彼の顔によく似合っている。あれは藤子不二雄独特の被り方である。
 バスク地方の帽子を巴里人が額を出して、あみだに被っているのを日本の人々が真似るようになったのは、大正の初期で、日本の画家が続々と巴里へ繰り出した時からだが、それ以来、バスクから巴里、巴里から日本へとベレーが伝染してきた。かっこいいとか、素敵だとかいうのは度を超すとイヤミになってしまうので、日本のアーチストの感じにも、ベレーを被った人の様子にも、そういうのがあるのは止むを得ないが、ベレーを被る人間のキメ手は額で、いわゆる秀でた、素敵な額を持っていることがベレーを被ることの条件だが、その点日本人より外国人の方が分がある。
 藤子不二雄のような、上等な(これは私の父の表現で父は上等の人間、上等な菓子、上等な酒、という風に言い、年中上等、上等と、上等を何にでもつけていた。私を見る時の父の目には、私が素敵な美人に見える魔法の眼鏡がかかっていたので、私を膝に乗せては「お茉莉は上等、お茉莉は上等。」と言っていた。)画家は、上等な顔をむろんしているので額も、上等だからこれは別である。
 私は「ドラえもん」を毎日欠かさず見ているが、それは私の頭の中に子供の部分があって、(往々、私の頭は実物の子供にすっかりなってしまっている)空を翔べるとか、あらゆる超自然なことを起すことの出来る人間(ドラえもんは人間ではないが)が何より好きだからで、魔法使いは子供の頃の憧憬人物だった。ただ外国の(たしか独逸の)お伽噺(「薔薇姫」)には善良な魔法使いが出てくるが、大抵の魔法使いは邪悪なことに魔法を使うのでその点「ドラえもん」は上等な魔術師なのでいい。
 ドラえもんと一緒にいる子供が時々一時間位、彼を私に貸してくれれば私は巴里から、灰色を帯びた薔薇色の午後の洋服と黒のクレープデシンのテーラー(スーツ)、灰色を帯びたローズの絹の靴下、小粒の真珠の首飾りなどを持って来てもらったり、部屋の窓の下で巴里のアコーディオンを鳴らしてもらったり、夜明けに、巴里の山羊の乳売りの、オペラの幕開きの音楽のような笛の音を、下の通りから聴えてこさせてもらったり、忙しい時に私の頭にうかぶ文章を、すごい速さで私の字で原稿用紙に、一分間で書いてもらったり、生焼けのビフテキとレタス、トマト、胡瓜、ピーマン、玉葱の、私の平常こしらえる特製スープをあっという間に造ってもらったり、テレビの画面に、巴里の芝居やオペラ、コンサートを映してもらったりしてもらいたいことが沢山あるのだが。
 また藤子不二雄がまだ考えていない彼の構想を本にまとめて投げ込んでもらったり、コナン・ドイルを蘇らせて、私のまだ読まないホームズの本を十冊位造って、部屋に置いてもらったり、飯沢匡の頭に魔法をかけて、「帽子と鉢巻」のような小説を浮べさせて、それを本にしたのや、蘇らせた獅子文六にも「大番」のような小説の構想を浮べさせて、それを本にしたのや、また、松本清張の小説も、彼の頭に魔法をかけて浮ばせ、また、仁木悦子、夏樹静子の小説もそういうようにして本にして、持って来てもらったり、あらゆる素敵なことが出来るのだが。横のものを縦にするのもいやな私には、また、そうしていろいろなことを実現させたい私にはどうしても、ドラえもんが必要である。時々、一時間で充分なのだが。ドラえもんなら一時間もかからないだろう。

1982年 「藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2」より

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