タイトル

 

■ありそうもない話をありそうに描きたい■

 
「オバケのQ太郎」は僕の(正確には僕等の)作品系列の一つ、日常性と非日常性のドッキングという路線を意図的に確立した最初の一本と言えましょう。つまり、ごくありふれた家庭の日常に、非日常その物のオバケがやってきて引き起こす波紋がこの作品の眼目になっているのです。言いかえれば、非日常性の日常化が狙いとも言えます。オバケという非日常的存在を、いかにもそのへんにいるありふれた人物?のように、副主人公である正ちゃんと同列にまで引き寄せて描くというパターンです。同様に「パーマン」はスーパーマンの日常化であり、「怪物くん」は妖怪の日常化、他に宇宙人・オカルト・超能力なども日常化したあげく、現在「ドラえもん」で珍奇な空想的諸道具を日常化しているところです。ふり返ってみると、この手の作品が実に多いのに今更のように驚かされます。

僕はふしぎな作品が大好きです。超常現象・UFO・雪男・ネッシー…。自分の体験からは大きくかけ離れたこういうふしぎな出来事を追体験したいという衝動は、僕に限らず人間の一般的な傾向として、時代を超えてあったようです。シャリアール王がシェヘラザードを殺すことを一夜延期したのは、彼女の話があまりにもふしぎで面白かったからです。しかも「王さま、次の話はさらにさらにふしぎな物語でございます。」という予告篇につられ、千夜一夜もシェヘラザードのふしぎ話を聞き続けたあげく、とうとう彼女の死刑をウヤムヤにしてしまったほどです。何千年の昔、まだ文字も無かった時代から今に至るまで、世界中の諸民族に語り伝えられてきた民話・伝承は、そのほとんどがふしぎ話であるといっても過言ではありません。神・悪魔・妖精・魔法使い・あるいは人格化された動物などが生きいきと活躍する話です。昔むかしお爺さんが、お婆さんと若い娘と三角関係に落ちて………と言ったリアルな話は一つもないのです。あったかも知れないが残ってはいません。やはり話という物は、現実からの飛躍が大きいほど面白いのです。

ところが、時代が下って現代に近づくほど、この手のふしぎ話は、そのままの形では通じにくくなってきます。昔むかし、ランプや提灯のころには一寸先の暗闇に、幽霊の存在を実感できたでしょう。ひょっとして、魔神にさらわれた娘の話など、現代の誘拐事件などと同じように、いわばニュースストーリィの形で受けとめられていたかも知れません。今はそうはいかない。テレビのUFO番組など僕は好んで見るほうですが、どうもウサンくさい部分が残ってがっかりすることが多いのです。それでも、いつかは疑う余地のない決定的なシーンを見られるのではないかと、チャンネルをまわし続けています。

結局、こういうことではないでしょうか。誰でもふしぎな話は聞きたい。ただし、まるっきりの絵空事ではなく、それを身近な、自分のまわりで起きたとしてもおかしくない現実感をもって聞きたい。ありそうもない話をありそうに聞きたい、と言うことだろうと思うのです。

「オバQ」は、僕自身の中のそんな欲求に応えて生まれたまんがなのです。

昭和56年 小学館刊 藤子不二雄自選集8『オバケのQ太郎1』より

 

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