タイトル

 

■オバQの日常性■


尾崎秀樹  

「オバケのQ太郎」は昭和三十九年二月から昭和四十一年の末まで『少年サンデー』に連載された藤子不二雄の代表的なギャグまんがである。連載されはじめた最初のころ、思ったほど評判にならず、三か月ほどで中断されたことがあるが、かえって読者からつきあげをくらい、継続を希望する声がつよく、まもなく復活し、昭和四十年に入ってからは『めばえ』『よいこ』『幼稚園』『一〜六年生』などにも躍進し、小学館関係の各紙でオバQ時代を現出する。

白いガウンの下からチョコンと出た動物的な足、中央によったヒンガラ目、何でもスッポリ入ってしまうような大きな口、三本はえた頭の毛、おまけに犬が大嫌いで、オバケのくせに犬を見るとふるえあがる。正太くんの家にいそうろう同様に住んでいる。正太くんのパパはあわて者だが好人物で、気立ての優しい正太くんのママとは好一対の組みあわせだ。正太くんのにいさんの伸一、おともだちのヨッちゃんやゴジラ、おまけにドロンパやピー子に、ラーメンの好きな小池さんなど、登場人物のひとりひとりがいかにも印象的なタイプにできている。

このオバQが現在のようなスタイルに定着するのは、連載がはじまった年の秋くらいからで、それまではオバQの頭の毛も、三本ではなく、次第とその形態をかためていったということができる。もともとオバケまんがという注文ではじめたものらしいが日常的な子どもの生活の中に、いきなりオバケという非日常的な生きものがまぎれこんでくるところにオバQのおもしろみがある。しかもそのオバケのQ太郎たるやスーパー・マンとはまるで違うイメージを与える、ややおっちょこちょいで単細胞のかたまりみたいな素直な性格をもち、涙もろく犬嫌いときているのだから、きわめてしたしみがもてる。こういった日常性と非日常性が一体化されたようなオバケのQ太郎の不思議な性格づくりが人気の中心であることはいうまでもない。

オバケといえばこわいものに相場がきまっている。それがこわいどころかきわめて人間的で、したしみがもてるというのであれば、これほど愉快な世界はない。おとなの世界はもののけにつかれたような不条理な事がらが横行している。それに反して子どもたちはオバケまでを飼育化し、ペット化してしまった。これは子どものおちなにたいする手いたいシッペ返しでもあるのだ。藤子不二雄はオバQをそういったタイプに造型することで、生活ギャグまんがの範囲を拡大し、可能性をたしかめようとした作家でもあった。

藤子不二雄はエラリー・クイーンと同様に、藤本弘と安孫子素雄のコンビが生んだ第三の人物である。デビュー作は「天使のタマちゃん」以来いくつかの分野を模索した後、オバQによって方向を確立した。「フータくん」「忍者ハットリくん」「怪物くん」「パーマン」などには共通した人間認識がある。それは十数年におよぶまんが作家としての体験の総量に根ざすもので、劇画ブームの現在むしろ清冽なギャグまんがの伝統をまもる仕事として、赤塚不二夫などとともに珍重されるべき存在であろう。

藤子不二雄のひとり、安孫子素雄と合ったおり、「いわゆるストーリーまんがというものは、時間的空間的にも素材がひろがりすぎて日常性というか、子どもたちの生活とすごくかけ離れてしまったのです。それで僕たちは現実の子どもたちの生活をギャグまんがとして描く線をだしたんです」という話を聞いたことがあるが、笑い自体がまんがの中で変質しようとしているとき、ギャグまんがの王道を行く仕事の意義は何倍にか評価されなければならない。

今日の社会がさまざまな歪みをもって感じられるとき、その歪み自体を笑いとばすほどの笑いを創造することは、笑いをこえて怒りにかよいあうものがある。「オバケのQ太郎」のもつおもしろみは、オバQが人間社会のまっただ中にとびこんだことでひきおこされる違和感にある。しかしその違和感が生む笑いは、じつは現代人がともすれば見失いがちな人間味の発露なのだ。オバQが藤子不二雄の手をはなれて、いつか時代のアイドルとなったのも、そのためではないだろうか。

1969年 虫コミックス「オバケのQ太郎 1」より

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