タイトル

 

■藤子不二雄の育児書■


阿部 進  

オバQとの出逢いはずいぶんむかしのように思うけれども、それでいて、いますぐとなりにもいるという感じだ。

鉄腕アトムで育った子どもたちと、オバQ、おそ松くんで育った子どもたち、そして現在は怪物クン、もーれつア太郎、ハレンチ学園で育っている子どもたち……三つに大別できるように思う。

オバQで幼児期を育った連中はいま小学校の四、五年生だ。カレらはいま、怪物クンやウメ星デンカやハレンチ学園に夢中である。それと同時に、いまの幼児たちも夢中である。どこかでだぶって夢中になるもののレベルが一段か二段、高くなっているというのが実状だ。だからいまの幼児たちに「オバQ」をぶっつけても、かつての何がなんでもオバQだった時代にくらべるとことはできない。今の幼児たちは作者藤子不二雄が、オバQを経て、怪物クン、ウメ星デンカに到達した地点からの出逢いだからだ。

オバQの功罪は一つずつある。罪の方からいえば「おばけを友だち」にしてしまったことだ。おばけは子どもたちからみて相対する存在であってほしいと思う。それは子どもにとって未知なるものへの恐怖を教えることになるからだ。おばけとは得体の知れない、四次元世界を超越してこの世に存在しているもの、それは恐怖であり、それを解きあかすために文明・科学が発達したと考えるからだ。「なんにもコワイもんてないよ」「人間はいつまでだって生きるもん、ボクは百歳ぐらいまで生きるよ。そうだな、死ぬんだったら交通事故か人に刺されて死ぬってとこかな……」といった答え方はおとなにはできない。彼らの未来はまだたくさんあり、おとなのそれはもうすぐそこまで未来がきてしまって過去ばかりになってしまっている……そんなおとなと子どものひらき方にガッカリしたり考えこんでしまっている……そんなところが彼らにはない。

オバQは外からきて人間の内面にはいりこみ、そして「よき隣人」として人間社会に定着している。楳図かずおの蛇もののそれは。人間の内部に食い入り、人間を蛇化するという、他生物の侵略という形でその恐怖をうったえている。この限りにおいてはボクは楳図のいき方を支持したい。外からよってくるものを無制限に、「みんな友だち、万国博よ、おめでとう!!」といったものにしてはならないと思うからである。外よりきたるものには人間の知恵を結集してうたがってみる、そこから出発してほしいと思う。

「オバQ」はスンナリ、人間社会にとけこんでしまっているのがものたりなのだ。

功の方でいえば、オバQくらい幼児に「われらが仲間」としてむかえられた者はいない。ここではオバQイコール幼児の原形といってよい。「おばけ」という仮りの姿になってでてきた幼児たちの成長過程のチョッピリ先を行っている仲間として、子どもたちの共感を、大いに得たといえるだろう。

作者の子どもを見る目と、子どものオドロキやギモンや行動について、今までどれだけの教育者や心理学者が迫ることができただろうか。ぼくは、オバQは、松田道雄・スポック博士・トーマス博士と並んで、「藤子不二雄の育児書」と呼んでも決してまちがいではないと思っている。ただ、順序正しく発展の方向が明示していない八方破れな点があるのはいたしかたない。しかし「オバQ」によって成長した子どもの方が「××博士の育児書」や、婦人雑誌の育児記事によって育てられた子どもの数より圧倒的に大きいということを認めるべきだと思う。

藤子不二雄は、幼児のためになんて考えながらオバQを描きはじめたのではないと思う。また幼児がよろこぶからと考えて幼稚さをオバQに繰り入れようとしたものでもない。

彼らは、読者を「幼児・子ども」と定言しないで、やがてはオレたちと同じおとなになる仲間、「このチビッコいやつめ!!」と思いながら、描きたいことを描いたのではないかと推察している。

そこに幼児、子どもたちと共感する面が生じる。彼らは日々おとなへの成長をつづけ、子どもである日の過去は必要のないものであり、今日と明日しかないのだ。学者や教育者が過去の成長記録にこだわっている時、わが「オバQ」は理解できない飛躍をしている。

オバQは彼ら自身の成長の姿である。

1969年 虫コミックス「オバケのQ太郎 2」より

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